「晋助…今何と言った?」 「聞こえなかったのか?」 クク、とからかうように喉を鳴らす高杉に万斉は顔を顰める。 万斉にその言葉は聞こえていたし、万斉に声が届いた事を高杉も知っていた。 これはその上での問答。 「二度は言わねーぞ、聞こえねぇならヘッドフォンでも外すんだな」 「聞こえている」 「だったら聞き直す必要ねェだろうが」 「大有りであろう、拙者は反対だ」 酒の入った猪口を手に持ったまま、万斉が高杉を軽く睨む。 サングラスのせいで目つきは見えないものの、発せられている雰囲気は本物だ。 しかし高杉は全く意に介さず、涼しげに猪口を傾けた。 「うるせェ命令だ、反論は聞かねーよ」 「拙者が納得せぬ限りは是が非でも聞かぬぞ晋助、気まぐれで決めるには危険すぎる」 「何が危険なんだァ?」 トン、と猪口が置かれる。 「何ゆえを密偵とする?」 万斉の口調には、怒りさえ含まれていた。 とは、つい最近高杉が拾ってきた男の名前だ。 高杉が誰かをスカウトしてくるのは構わない、鬼兵隊の総督は彼だ。 だが今回の決定では、話は全く違ってくる。 彼は鬼兵隊に身を置いてまだ一月も経っていない新参者だ。 どんな人間性かも把握していない今の状態で、密偵役とするなど正気の沙汰ではない。 密偵、諜報、間者。 これらの役割は、時に武力など及びもつかない力を呼び寄せる。 だからこそ、どこの馬の骨とも言えぬ人間に任せられるはずがなかった。 「晋助の気まぐれは今に始まった事ではない、だが今回の決定は流石に捨て置けぬ」 「チッ、テメェは何が気に食わねーんだよ」 「気に食わないの問題ではないだろうが、オメーの決定一つで鬼兵隊が壊滅すんだぞ」 古風を良しとする口調が完全に崩れ、万斉は自らを落ち着かせようと酒を口に含んだ。 高杉は楽しそうにクックッと笑っている。 何が楽しいんだろうか、この男は。 「ともかく…に密偵としての仕事を与えのは時期尚早でござる」 低いとはいえ、が幕府の犬の間者として潜り込んでいる可能性も否めない。 高杉が幕府の犬を見分けられないワケがないが、密偵に昇格させる理由にもならなかった。 「俺ァアイツ以外を間者にするつもりはねーぞ万斉」 「…何故そこまであの男を推奨する?」 全く聞き入れようとしない高杉に、段々と疑問が湧いてくる。 何故ならは密偵どころか、戦すら経験していないであろう男だったからだ。 この船で刀を渡したとき、上から下まで珍しそうに眺めていたあの表情は素人そのもの。 同じようにスカウトされてきた岡田似蔵とは違い、戦闘要員として全く役に立たないだろう。 何故そんな男に、こんな重要な役割を与えようというのだろうか? 「アイツはよォ、密偵になるべくして生まれてきた男なんだぜ」 「…意味が分からぬ」 「万斉。密偵に必要なモン、いや…必要ねーモンは何だ?」 咄嗟に答えられず、万斉は押し黙った。 高杉も返答があるとは思っていなかったのか、膝を立てて煙管を口に銜える。 その口元が釣りあがった。 「間者ってのは組織一つ、国一つ壊しちまう静かな爆弾みてェなモンだ」 「…違いない」 「戦じゃそれを如何に見つけ出し、如何にそいつを抱き込むかによって全く違いやがる」 「ふむ……」 「間者は絶対的な存在だがリスクも高ェ、ヘタすりゃコッチの情報ダダ漏れで簡単に粛清だ」 高杉の口から煙が吐き出される。 諸刃の刃だと言いたいのだろう、その言葉に間違いは無い。 万斉は特に言葉を挟まずに、続きを促した。 「諜報部隊に必要ねェのは“欲”だ」 「………………」 生きる欲が強ければ、捕まった際に敵方に命乞いをし助かろうとする。 物欲が高ければ買収され、敵方に情報を売ってしまう。 我欲が強ければ謀反が起こる、諜報は影の仕事故にその手の人間には必ず不満が現れてくる。 「晋助の考えは道理だが…やはり解せぬ。何故そこでが――」 「にゃ欲がねェんだよ」 万斉がサングラスの奥にある目を見開いた。 高杉は再び喉を鳴らす、今までの中で一番満足そうな様子で。 「ありゃあ天賦の才ってヤツだ。誰がどう足掻こうが、を超える間者にゃなれねーよ」 「しかし、は戦闘能力に問題が――」 「んなモン鍛えりゃ誰でもマシになんだろうが」 欲が無い、など万斉は信じられないかった。 ドコにそんな人間がいる、この世は聴くに堪えぬ“欲”を奏でる亡者で溢れているというのに。 あまりの言い分に、自身の疑問とは根本からズレた質問までしてしまう。 「俺ァな、アイツを襲った天人に感謝してるくらいだぜ」 「………………」 「あの経験が無けりゃ、の欲が極限まで殺ぎ落とされるってのには行かなかっただろうしなァ」 万斉もが鬼兵隊に連れてこられた経緯を高杉から聞かされている。 あの時高杉は言った、面白いモノを見つけたと。 「散々他人から裏切られといて、今度は俺達を信じようとしやがる。馬鹿な野郎だ」 「晋助…」 「だからこそ裏切る心配はねぇ、新しい燃料を補充してやった恩義を忘れる奴じゃあるめーよ」 は純粋だった、と高杉は言っていた。 純粋故に発した怒りも純度が高かった、赤ではなく青い炎だったらしい。 だからこそが生来持っていた薪は一瞬で燃え尽き、絶望という名の燃えカスしか残らなかった。 高杉はそこでと出会い、青い炎に耐えられる新しい薪を補填してやったと言っていた。 ……ということは。 「晋助はを壊れるまで使うつもりでござるか?」 「…どうだろうな」 「まずは鍛錬を。どちらにしても今の戦闘力で諜報は無理でござろう」 「テメェ、反対してたんじゃなかったのか?」 からかうような高杉の口調を受け流し、万斉は猪口に酒を注ぎこむ。 それを一口飲んで、薄く笑った。 「の旋律を思い出した今、様子見くらいの譲歩はするでござるよ」 哀しみによって水のように澄んだバラード。 そして青と黒が混ざる炎の音が、一体何処へ辿り着くのか興味があった。 |